【映画感想】ピエロで有名な『IT』を見たんだけど、色々と予想外だった件
ピエロで有名な『IT』を見たんだけど(新しいのじゃなく、1990年の方ね)想像をめちゃくちゃ裏切られた。
あのね、終始笑いっぱなしだった( ̄∀ ̄)
ホラーやと思ってたのにww
ペニーワイズは超絶キュートな愛されキャラ❤︎
ネットでもよく、ペニーワイズ(ピエロね)が排水口から除いてるシーンの写真が出回ってるよね。
↑これね。見たことない?(写真はネットからお借りしました)
『IT』でピエロ恐怖症になった人もいるって聞いたことがあるからさ、どんなに怖いのかとドキドキしながら見始めたの。
あれだけ有名なんやし、きっと怖いんやろうなって。
…やのにさ、なんですか。
ペニーワイズさん、ただの超絶かまってちゃんじゃないっすか( ̄∀ ̄)ww
動きとか表情とかね「やーいやーい。バーカバーカ」言うてる感じww
もはやいたずら好きなガキンチョww
そして、一人ひたすら楽しそうww
↑ね?とっても楽しそうw(写真はこちらから)
なんかもう後半とかコントに見えてきてしまってね。
色々とステキな3時間でしたww
ペニーワイズ=ウッチャン説
弟と二人で見たんやけどね、『ペニーワイズは、もしやウッチャン(ウッチャンナンチャンの)なのではないか?』という説が出た。
動きとか表情とかがね、『笑う犬』(覚えてる人いるかな?)のウッチャンとそっくりなんww
絶対これウッチャンがネタにしてるやつやって。これ、絶対ウッチャンやろ。ウッチャン何してんのって言いながらホラー映画を見る姉弟。
白いし、もはやミル姉さんにしか見えませんww
とはいえ、最新版を映画館では見れません(笑)『IT』のリメイク版、今上映されてるよね。(もう終わったかな?)
だけど、あれは多分見れません(笑)
だって、あっちのペニーワイズ可愛くないんだもん。あれはウッチャンじゃないんだもん(←どんなんだw)
↑ほら、もはや別人。こっちのペニーさんは私怖くて泣いちゃう(つД`)ノ (写真はこちらから)
映画館でホラーイヤゼッタイ(←笑)
かわいいペニーワイズが見たい人はIT(1990年版)を。ちゃんとしたホラーが見たい人は最新版のITを見よう!(もはやホラーの宣伝じゃないよねw)
バリエーションが選べる親切設計ダネ!!(`・∀・´)(笑)
★キュートなペニーワイズが見たいならこっち
★ちゃんとしたホラーが見たいならこっち
人の機嫌よりも自分の機嫌をとる
人がイライラした時に、どんな対応をするかは人によって違う。
なだめに行く人、ほっとく人、「またイライラしてる」ってつられてイライラしちゃう人。いろんな対応と反応の仕方がある。
ちなみに今の私はどうするか?
多分、ほっときます( ̄∀ ̄)
もしくは、イライラが収まってから、「お疲れ様です〜」って飲み物差し出すかな?
もしくは笑いを取りに行くwwwだってピリピリした空気嫌だもん( ̄∀ ̄)
全部、自分の無理のない範囲で。自分の感情が影響されない範囲で。
過去の私やったらなだめに行こうと必死やったと思うけど、今はわざわざ接触しにはいかないよ^^
「私がなんとかしなきゃ」は必要なし!
過去の私は、「宥めなきゃ」とか、「話を聞いてあげなきゃ」と必死だった。ピリピリした空気が嫌で、なんとかしなきゃって思ってた。
アンパンマンもびっくりの、「私がなんとかしなきゃ」精神ですよ( ̄∀ ̄)ww
わざわざイライラしてる人に近づいて、延々と続く愚痴の聞き役になり、気がつけば疲弊しているという。
愚痴を言う人はほっといても愚痴を言うけどね、私が愚痴を言わせてた部分もあると思う。
だって自ら聞きに行ってるわけだからさw
そう、まさしくカモ。
I am KAMO でした( ̄∀ ̄)ww
イライラしてる人はほっとく!
イライラしやすい人ってね、わざわざ自分でイライラしに行ってる部分があると思う。イライラのタネを探すというか。
だから、周囲がいくらなだめても、イライラする人はイライラする。
イライラする人はイライラさせておくといい。ほっとくの。
「イライラする」のは感情だから、感情を出すのを止めはしない。そして、とばっちりも受けに行かない。
で、イライラが収まった頃に、そっと差し入れをしたり、いつもありがとうねって気持ちを表しておく。
そしたら自分もとばっちりを受けず、イライラする人を嫌いになることもなく、罪悪感を抱くこともない。
「罪悪感を抱く」っていうのがそもそもおかしいんだけどね。人の感情に責任を持つ必要はないからさ^^
だけど、私はまだそこまでは割り切ることができないからこの方法をとる。この方法が今の私の中ではベスト。
人の機嫌より自分の機嫌を!
なだめるのが癖になってる人は、最初ほっとくことにすごく抵抗があると思う。
だけど、接して自分が疲弊するのであれば、わざわざ近づく必要はないんだよ。
感情はその人自身が選んでるものだからさ。あなたが機嫌を取らなくていい。
あなたはあなたの機嫌を一番に取ればいい。相手の機嫌はその人本人が取らなきゃダメなんだよ。
人の機嫌より自分の機嫌を。
イライラする人はほっとこう( ̄∀ ̄)❤︎
自己否定と罪悪感はいらない
最近思う。自己否定と罪悪感って本当いらないなぁって^^
なんかね、最近いろんな人からいろんなものをもらうw
昔から、結構可愛がっていただけることが多かったんだけど(これは私の強みやね♪)、最近は特に、何かと周りの人が優しくしてくれる。嬉しい♪感謝(о´∀`о)❤︎
なんでかなぁ?って考えると、私が罪悪感と自己否定を手放したからだなぁって気づいた。
罪悪感と自己否定があると“受け取る”ことができない
思うんだけどね、罪悪感と自己否定があると、人からの好意や気持ちを素直に“受け取る”ことが出来ないんだと思う。
人が何かしてくれても、「こんなことしてもらって悪いな」とか、「私なんかの為に」って卑屈になってしまうから。
裏があるんじゃないかと相手を疑ってしまったりねw自分に自信がないから、「私にこんなことをしてくれるなんて何かあるのでは?」って疑うんだろうね。
そこは素直に「ありがとう」でいいのに( ̄∀ ̄)ww
人からの気持ちや愛を受け取る為には、受け取る側の「受け取る力」もいるんだなぁって。
どんなに相手がよくしてくれてても、受け取る側に受け取る力がなければ、上手に受け取ることが出来ない(;´д`)
「素直に甘える」ことのブレーキにもなる
罪悪感と自己否定があると、「人に甘える」こともできなくなると思う。
よく「甘えることが苦手」って言う人いるよね。あれって、多分、罪悪感から甘えられないんだろうなぁって。
「こんなこと頼んだら悪いかな」とか、「私なんかの為にごめんね」って思ってしまうから。
ちなみに私もその一人でした( ̄∀ ̄)ww
「しっかりしなきゃ」と思えば思うほど、一人でいろんなものを抱え込んで潰れてきた過去。
一人で何でもできることが偉いわけじゃないのにね。今思えば、「凄い人」になりたかったんだろうな。
今はかなーりいろんな人に甘えまくってます( ̄∀ ̄)ww
でも、おかげでかなり生きやすくなりました。たくさんの人に、ありがとう^^
罪悪感と自己否定はいらないよ〜
上手くまとまらないけどね、罪悪感と自己否定は本当にいらないよ。
人がしてくれることは、あなたを喜ばせたくてしてくれてるんだからさ。
「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」を^^
罪悪感と自己否定を手放して、受け取り上手の甘え上手になっちゃおう( ̄∀ ̄)♪
「力を抜く」を意識すると疲れにくくなるよ
最近意識してることシリーズw
私が最近意識してることの1つが、毎日「力を抜いて」過ごすこと。
「体」の力を抜く
私ね、昔からすごく疲れやすかった。子供の頃から、1日体力が持たない子供だった。
外で遊ぶのも大好きな子供だったんだけどね、なぜか体力が持たなかった(;´д`)
なんでかな?と考えてみるとね、常に体に力が入った状態だったから。そら疲れるよw常に体が緊張状態なわけやから。
もちろん、環境的な要因もあるけれど、自分の意識次第で力をぬくことはできる。
力が入ってしまうのは一種の癖のようなものだから、同じように、「力を入れない状態」を癖にすることもできる(о´∀`о)♪
体の力を抜くコツ
体の力を抜くコツは、自分で「あ、力が入ってるな」ということに気づくこと。気づかないと力を抜くこともできないからね(^◇^;)
仕事中とかは特に、無意識のうちに体に力が入ってる人は多いと思う。背中とか肩とか特にね。これがコリになったりもする。
だから作業中でも、ふっと力を抜く癖をつける。
イメージとしてオススメなのは、湯船に浸かる瞬間を想像すること。あの「ふ〜(о´∀`о)」っていうときの感覚。
あれを普段どこでも思い出す。力が入ってるなと思った時にね。気がついた時にすぐやる。
大きな動きではないから、デスクワークの人とかでも、自分の席でできると思う。
あと、こちらはある程度動ける人限定だけど、肩甲骨を寄せたり伸びをするストレッチ。
私は仕事が立ち作業だから、よくストレッチもしてるよ^^
「頭」の力を抜く
私ね、体に力が入ることも多いけど、「頭」に力が入ってることも多かった。
どういうことかというと、頭の中が常に多動だったのだw
効率を重視しすぎたり、「あれやって、これやって…」ってあれこれ考える癖のある人は要注意。それ、すごく疲れる原因だよ(^◇^;)
思考の力を抜くコツ
思考の力を抜くコツは、とにかく考えないこと(アホになるのだ( ̄∀ ̄))
ま、これは極端な例やけどもw
わかりやすくいうと、「考えなくて良いことは考えない」ようにするということ。
たとえば、「記憶に頼らなくていいこと」は頭から出してしまうの。
することとか、ふっと頭をよぎった時にすぐメモしてしまう。そうすれば安心して忘れることができるし、覚えておかなくていい^^
記憶じゃなくて記録に頼る!( ̄∀ ̄)
忘れちゃいけないことは、安心して忘れられるようにしたらいい。
頭は必要なことにだけ使おう♪
あと、「こうなったらどうしよう」と未来に対して不安で頭をぐるぐるさせることとか、過去のトラウマをわざわざ引っ張り出してきて考えること。
この癖がある人も、無駄に頭を使っているよ。
過去や未来は存在しないともいうけれど、「ある」と仮定したとすれば、未来は「わくわくするために」、過去は「懐かしむために」あるんだと私は思う。
どちらも悩み苦しむためにあるんじゃないよ♪
思い出すなら楽しい思い出を。
思い浮かべるならわくわくする未来を。
力を抜くと、疲れ度合いが違う!
力を抜くことを癖付けてからね、本当に疲れ度合いが違う!∑(゚Д゚)
どれだけ今まで体と頭を酷使してきたんだ私っ!ごめんよ自分!って思ったww
あとね、「動きやすい」の。あれこれ考えなくなるからね。フットワークが軽くなる^^
「力を抜く」すごくおすすめだよ〜♪
毒親・DV・モラハラからは一刻も早く逃げろ!「私が我慢すれば」はする必要のない我慢
毒親や、DV・モラハラをするパートナーに対して、「私が我慢すれば」と思ってしまう人へ全力で伝えたいこと。
さっさとに逃げんさいばかちん(゚д゚)‼‼
相手を変えることはできない
はっきり言ってしまうと、あなたがどんなに泣いても・謝っても・寄り添っても・相手を変えることはできない。
あなたが変えられるのは、あなた自身のことだけ。
「私が我慢すれば」は無駄な我慢であり、する必要のない我慢だよ。(きーづーいーてー)
あなたが我慢することと、相手が変わることとは別。全く関係のないお話。
本人を変えられるのは本人だけ
「でも、いつか変わってくれるかもしれない。」
そう期待してしまう人は多いと思う。
大切な相手であればあるほど、期待してしまうという人や、信じたくなってしまうという気持ちはすごくわかる。
でもね、冷静に考えてみてほしい。
ほな、その「いつか」はいつ来るの?
その「いつか」のために、大切な「今」を犠牲にするの?
「変わってくれるかもしれない」は、同時に「変わってくれないかもしれない」でもある(むしろこっちのほうが割合としては高い)
自分のことなら自分でいくらでも変えることができる。でも、相手を変えることができるのは相手だけ。
どんなに優しく寄り添っても、どんなに傷ついたと言っても、相手は、相手が「変わろう」としない限りは変わらない。
そこに、自分の幸せをゆだねちゃダメだ。
あなたはあなたを幸せにする
「でも、優しいときもあるから…」と、庇ってしまう人は多いんじゃないかな。信じたくなる気持ちもよーくわかる。
ただねはっきり言うと、「大切な人に優しくする」のは当たり前のこと。
当たり前のことだから感謝しなくていいって言ってるんじゃないよ。大事な人なら、大事にして当たり前なんだよっていう意味ね。
人間だから、そりゃピリピリすることや余裕のない時はあるだろう。ただ、本当に大切な人なら、感情のゴミ箱にはしない。してはいけない。
「怒る」のは別にいい。「怒るな」っていうのは感情を出すなってことだからね、そりゃ無理な話。怒るのはただの自然な感情。
ただ、「当たり散らす」のは違う。当たり散らすのは、相手を感情のゴミ箱にしてる。
「優しいときもある」なんて言ってないで、あなたを大切に扱ってくれる人と一緒にいよう。
そんな悲しい愛もどきに縋らないで。自分を低く見積もらないで。
「人」を大切にしたいなら、まず「あなた」を大切にしなきゃ。聞いたことがある人は多いと思うけど、人を大切にできる人は自分を大切にできる人。
自分を大事にできて、はじめて人を大切にできる。
自分を蔑ろにしてくる相手とは潔く離れる勇気を。
勇気を持って、幸せになろう。
ちなみに
これ、全部過去の私自身のことね(笑)
結婚していたとき、「私が選んだんだから」「すぐに別れちゃだめだ」と、変な義務感と罪悪感で自分を縛っていたのだ。
確かに、「過去」にその選択をしたのは私。でもそれと、「今」離れるかどうかは別の話。
過去の自分を振り返ってすごく思うのは、めっちゃ世間体を気にしてるということ。自分の感情や価値観ではなく。
「ダメだ」って自分に言ってるのは、誰でもなく自分自身。
私も、すごーくばかちんだったのだ( ̄∀ ̄)
ただ、後悔はしてないけどね。結婚したことも離婚したことも。(くわしくはこちらからどうぞ)
自分で選んだことであり、その経験があったから今の自分がある。
あなたを蔑ろにする人からは、潔く離れる勇気を♪
毒親とメンヘラとストーカーはよく似てる
思うんだけどね、毒親とメンヘラとストーカー、この3つは本当によく似てると思う。
自分で幸せになることができず、人に幸せにしてもらおうとする人たち
毒親とメンヘラとストーカー、この3種類の人間に共通するのは、自分で自分を幸せにすることができず、自分の幸せを他者に委ねているということ。
毒親の場合
こちら、私の親の口ぐせ
- お前さえいなければ
- あんたなんか産まなければよかった
- こんなにしてやってるのに!
- 誰のおかげやと思ってる
いやぁ、一覧にすると本当にすごいなぁと思う(笑)(よくここまで人のせいにできたもんだ)
人(子供)に見返りを求め、お前のせいで幸せになれないと宣う。
大人になって思うのは、私がいてもいなくても、きっとこの人達は不幸だったんだろうなということ。
何かにつけて子供のせいにし、子供に見返りを要求する。そして自分の要望や要求したものが返ってこないと、攻撃したり脅したりしてコントロールしようとする。
でも本来、人をコントロールすることはできない。たとえそれが子供であっても。
自分で自分を幸せにすることができず、子供に自分の幸せを任せるから、思い通りにならない。結果、それが怒りになり、攻撃になる。
自分を幸せにできないのも自分。「幸せになれない」というゴールを自分で設定してるのも自分。親自身ね。
メンヘラの場合
メンヘラはすぐに
「私のことなんて愛してないんでしょ」「私なんていなくてもいいんでしょ」
と言う。
これね、常に愛されていない理由を探しているの。愛されている理由じゃyなくて。
愛されていない理由を探すわけだから、当然愛されていない理由ばかりが見えてくる。で、「相手」が幸せにしてくれないと宣う。
どんなに相手が愛してても、「愛されていない」という方向に持って行きたがるんだよね。
そう思っているのは自分なのにね。
何を信じても自由なんだからさ、愛されてる理由を探せばいいのに。そしたらきっと、相手に対しても、感謝と幸せしかないんじゃないかな。
ストーカーの場合
ストーカーは、「こんなに好きなのになぜ分かってくれないんだ」と、独りよがりな行動をする。
それは愛じゃなくて、執着でありコントロールでありおしつけ。わかりやすく言うと、「俺の好きって気持ちを受け取ってよ‼︎」って一方的に相手に押し付けてる状態。
そりゃ、相手逃げるよね(^_^;)
ほんで、嫌がることをしておきながら、「相手が」振り向いてくれないからだと宣う。
好かれたいなら好かれることをすればいいだけなのに。嫌われるゴールに持っていってるのは自分。
クレクレさん
3つとも、ベクトルが全部相手なのね。「なんで思うように動いてくれないのよ!」って、相手を責める負のベクトルというか。
〇〇してくれない!私or俺は、こんなにやってるor好きなのに!!って。
与えるんじゃなく、クレクレ。「よこせ!」っていう感じといえばいいかな?
相手を「恐怖」でコントロールしようとする。
この人達は、とにかく自分に自信がない。一見どんなに自信満々に見えていても、本当の意味では、自分で自分を認めることができていない。
だから「失う」ことと「傷つく」ことを極端に恐れる。
自分を守ろうとして、他者に対しての攻撃になる。
でも、それを素直に表現できないし、認めることができない。
「弱い自分を認めることができない」という、自分自自身をも認めることができない。
だから、暴力や暴言、自殺のほのめかしなどで「脅す」。相手をコントロールしようとする。
相手の感情は相手が選ぶものなのにね。
しかもそのコントロール方法が「恐怖」。そら、相手からは逃げられる。結果、さらにこじらせる。
まさに負のスパイラルやよね。
被害者意識が強い
拗らせた結果、被害者意識がとても強くなるんだと思う。
被害者意識が強いタイプにも2種類あって、「どうせ私が悪いんでしょ」という悲劇のヒロインへ走るタイプと、「俺が悪いっていうのか‼︎」と開き直るタイプがいる。
ちなみに私は、母親が前のタイプで父親が後ろのタイプ。
一見相反するように見えるけど、どちらも根は同じ。
開き直るタイプは、自分が「弱い」ということを認められないから、攻撃に走る。必死で自分を守ってるんやね。
「害を被る者」と書いて「被害者」。常に「やられた!やられた!自分かわいそう!」が根底にあるんだなぁって。
ポイントは、勝手に被害者になってるというところね。
こうして文章として書きだしてみるほどに、この3種類の人間はそっくりやと思う。以上、仕事中にふわーっと頭に浮かんだことをまとめてみた。(仕事せぇ)
みなさんこの3種類の人間にはご注意を。
年齢不詳のすすめ
私、昔から「あんたって何歳よ」って言われることが多い。
友達・恋人・職場の人、いろーんな人から言われる( ̄∀ ̄)なはは
特に最近いろんな人から言われるので、なぜ言われるのだろうかと、自分なりに分析してみた。
自分基準の「なんか気になるセンサー」
私、好奇心が旺盛なのね。
なんだろう、「なんか気になるセンサー」があるんだと思う。自分基準の。「面白い!」とか「気になる!」とか。
世代とか流行りとかが判断基準じゃないから、びっくりするものに興味が向くこともある。
もちろん流行りのものがこのセンサーに引っかかることもあれば、昔のものがこのセンサーに引っかかることもある。
だから昔の歌や映画を知っていたり、突然歌い出すことも多々ありけり。
「あんたいくつやねん!」と言われる理由の大半は多分これだな( ̄∀ ̄)
好奇心と行動性
気になったら即調べるから、気がつけばいろんなことを知っていたりする。
結果、知らん間に知識が増える( ̄∀ ̄)(使える使えないは別として 笑)
アホな話から難しい話までいろんなことが好き。見える世界の話も(人とか生き物とか物質とか)見えない世界の話も(神話とか宇宙とか心理とか心とか)好き。
学生時代、よく先生を質問ぜめにもしてた。なんで?なんで?って。
世代の違う人の「俺たちの時代にはこれが流行ったんだ」とかいう話も大好き。「ほんで?ほんで?」「へー!!(゚∀゚)」ってどんどん聴きたくなる。
最近の若者はとか否定してくるタイプは嫌いだけどね。一括りにして否定したいだけの人はヤダ(´Д` )
…こうして考えると、好奇心と行動力の塊なんだろうと思う(笑)
年齢不詳を極めていこう
こうして書いてみて思うんだけどね、年齢不詳って楽しい(笑)
時代遅れだとか流行が大事だという意見ももちろんあるだろうけど、私は断然年齢不詳をお勧めする。(流行を否定するわけじゃなくてね。それが好きならそっちを選べばいい^^)
だっていろんなものが知れる。世界がどんどん広がる。
あなたも年齢不詳になってみない?( ̄∀ ̄)
かわいいにはcuteとcharmingの2種類がある
ふと思ったこと。
人を紹介された時とかにさ、「可愛い子だよ〜」って言われて、「え!どこが⁉︎」と思うことってあるよね(なんちゅう失礼な奴)
これってなぜ起こるのかな?って考えたんだけどね、人が言う「可愛い」には「cute」と「charming」があるからだと思った。
cuteとcharmingの違い
本来の意味の可愛いはcute。パッと見てわかる可愛さ。
目ぱっちりだったり、唇の形が綺麗だったり、造形的な美しさ。正統派美人と呼ばれる人たちはこっちやね。
多分「え!」ってなることが多い人は「かわいい」と聞いて「cute」を想像してるんだと思う。というか、多くの人が「可愛い」と聞くとcuteを想像しがちなんじゃないかな。
一方で、魅力的なのはcharming。こちらはパッと見ではわからないことも多い。話してみてすごく可愛らしい人もいるし、素敵な人もいる。
雰囲気美人と呼ばれる人はこちらのタイプ。(悪い意味じゃなくね)
charmingの感じ方は人それぞれ
「え⁉︎」っとなる理由に、cuteとcharmingの違いを書いたけど、そのほかにcharmingは基準が人によって違うというのもあると思う。
私がcharmingだと感じたものが人にもcharmingだとは限らない。だって魅力だと感じるかどうかは人それぞれやし、魅力的だと感じるポイントは人それぞれ違うから。
(そして私が「かわいい」というものはあまり理解されないことが多い)
cuteだけどcharmingではない人はいる
あとね、cuteでもcharmingじゃない人はいる。
cute≠ charming( ̄Д ̄)ノ!(←やかましいわ)
分かりやすく言うと、性格ブスといわれる人がこのタイプ。顔はかわいいのに、しゃべってみたら人の悪口ばっかり言うとか。
せっかくcuteやのにもったいないなぁと個人的には思う。
charmingにはなれる!
cuteには、生まれ持ったものの影響が大きい。
ただ、顔が可愛くなくてもcharmingになることは可能。
なり方は、自分の見せ方を知って活かすこと。
自分の見せ方をきちんと知っている人はすごくcharming。中にはそういった人たちのことを「雰囲気美人だ」とか「ぶさいくのくせに」と叩く人もいるけれど、それってすごくもったいないと私は思う。
叩いている暇があれば、自分の上手な見せ方を教えてもらえばいいと思うのね。
「カワイイは作れる!」っていうキャッチコピーがあったけどまさにそれ。
「私なんて可愛くないし」なんて言ってる暇があれば、自分を研究してcharmingになってやれ(=´∀`)b
(作った可愛さとかwwってバカにしてるそこのキミ!今の君はブサイクだぞっ(`・∀・´)はっはっは)
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見守れる人はすごい
(この写真面白すぎるwww)写真はこちらから
何かと親切にしてくれる人や、お世話を焼いてくれる人っている。これももちろん優しさなんだけど、私は「見守ってくれる」優しさがすごく好き。
親切は時にお節介になる
人に対して何かをしてあげたいっていう優しさはわかりやすい。でも時に、相手のチャレンジを潰してしまうことがある。
大切に思う相手であるほど、傷ついたらかわいそうという心からか、ついお節介をしてしまう人はいる。
私自身もお節介ををしてしまうことがある( ̄∀ ̄)w
見守れる人のすごさ
でも時々ね、いるんだな、見守ってくれる人が。私が何かしでかしても「アホやな〜w」言うてくれるタイプの人もそうだね。(中には単に関心のない人もいるだろうけどさw)
「そんなことしちゃだめ!」と怒るんじゃなく、「大丈夫⁉︎」と心配するんじゃなく、私の行動や言動をただ笑ってくれる人。
なんというかな、あれこれ親切にしてくれるタイプの人が私とは逆の方向への矢印だとしたら(悪いって意味じゃなくてね)、見守ってくれるタイプの人が私と同じ方向を向いてくれる矢印のイメージ。
イメージ図
私→
親切な人←
見守ってくれるタイプの人→
…わかりにくいな( ̄∀ ̄)
見守るって難しいことだと思う。相手の失敗や痛い思いをするであろうことを含めて、手を出さないってことだから。
私が、失敗するかもしれない、痛い思いをするかもしれない、傷つくかもしれない、泣くかもしれない(笑)それでも私の選択に委ねてくれるという感じ(о´∀`о)
特に私より長いこと生きてるのに見守ってくれるタイプの人は凄いよね。だって長いこと生きてる分、いろんな経験をしているんだからさ。
だから「危ない」と感じたら「そんなことしちゃだめ」と言いたくもなるはず。もしくは口うるさくなったりねw
私がまだまだ未熟であることをわかった上で、私の判断に委ねてくれるというわけだからね^^
基本スタイルは見守りつつ、本当に危ないときだけそっと手を出す
友達でも恋人でも職場の人でも、そういうスタイルの人が私は好き。間違いなく懐くww
「あーあいつ、転ぶだろうな。あ、やっぱり転んだ。お?お?泣くか?お、泣かんな…」って感じ?( ̄∀ ̄)(どんなイメージwww)
あれこれ口うるさくいうんじゃなく、私に何かやらせてみて、「あ、これはこいつやらかすな」ってことだけそっと手を出してくれる人とかね。もうすごく素敵。
最近、職場の人でもそういう人がいてね、素敵だなぁって思った^^(恋愛の話ではなくね」
見守れる人に、私はなりたい
(宮沢賢治じゃないけどさw)
見守レル人二、私ハナリタイ( ̄∀ ̄)
…そのためにはもっと器の大きさが必要だー( ̄∀ ̄)(笑)
こちらも同じ感じのお話^^
悲しい思い出は、焦点を変えて良い思い出にしちゃえ♪
過去のことなのに忘れられないことってあるよね。悲しくて悔しくてって思い出やトラウマ。
私は過去は過去だと思ってる(思うようにしてる)今を生きたーい。
だから悲しい思い出には「意識を向けない」ことを心がけてる。
「あるかないか」で言うとたしかに「ある」んだけど、過去を思い出して「悲しい」「辛い」という感情を味わわないようにしてる、という感覚。
だけど、それでも思い出してしまう時はある。自分でトラウマだと感じていることもある。ゼロにはなかなかならない。
そんな時にオススメなもう1つの方法がある。
これは、悲しい過去やトラウマに振り回されず「今を生きたい!」と思う人に、ぜひやってみてほしいこと。
「過去」は自分の都合のいいように覚えているだけのもの
昔から、心とか考えとかそういうものに対しての興味があったのね。今もいろんなものから勉強してる(勉強というと難しく考えがちだけど、“知りたい”から学んでる)
それで驚いたことなんだけどね、なんと「過去」って存在しないらしい!
私たちが信じてる“過去”ってね、私たち一人一人が解釈しただけのもの。共通の真実も事実もない。
同じものを見ても、その人によってどう思うかって変わってくるよね?
たとえば、たんぽぽを見ても「かわいい」って思う人もいれば「地味だ」って思う人もいるし、「雑草だ」と感じる人もいる。「犬のおしっこかかってそう」と思う人もいる。
だからね、過去のトラウマも出来事も、本当は私が「悲しい」って解釈しただけの記憶の断片でしかない。私が「悲しい」って感情を選んでしまってるだけ。
そしてさらにその「悲しい」を自分自身で増幅させてしまってるだけ。繰り返し思い出して、「悲しい」って味わうこととかでね。
過去って本当は、自分の都合のいいように覚えているだけのものなの。
焦点を変えてみて!
「悲しい」を「楽しい」とか「嬉しい」にすることは簡単♪
自分で「悲しい思い出」を「楽しい思い出」や「嬉しい思い出」に変換させてしまえばいいだけだから。
イメージとしては、焦点を変える。注目するポイントをずらす感じやね。
私の例
私は親から虐待を受けた経験がある。怖い人(変質者ね)に追いかけられた経験もある。
親のことについて、対処法や焦点の変え方的なことはちょくちょく書いてると思うから、今回は変質者に関する思い出を例に挙げて書くね。
あえて重い内容を書く理由は、「過去にどんな体験をしても大丈夫だよ」「自分で立ち上がろうと思えば立ち上がれるよ」って、読んだ人に信じて欲しいから。
あ、信じて欲しいのは私のエゴだけどさ(゚∀゚)
どうせなら笑って生きて欲しい。その方が人生楽しいよ。
当時私は学生で、帰宅途中に変質者に出くわした。私が徒歩で相手が自転車。追いかけてきて「エッ チして」と言われた。
その後どうなったか結論だけ言うと、たまたま駐車場から出てくる車があって、その前に飛び出して助けを求めた。
助けてくれたおばちゃん、とても親切な人でね。ホッとして泣きじゃくる私を、家の近くまで送ってくれた。
その日、後で当時付き合ってたカレさんと会う約束をしていたのね。平常心を装おうとしたんだけど、カレさんを見た途端ギャン泣き。(おばちゃんの前で泣いて彼さんの前で泣いて忙しい子)
ほんまホッとしてね、子供みたいにワンワン泣いた。
以前はこの「変質者に会った」という経験から、「外は怖い」とか「また会ったらどうしよう」とか「付け込まれる私が悪いのかな」とか思ったりもした。(結果、パニック障害を発症した。ちーん)
でも、これらも全て私が選んだ感情。
だってどれも私が思っていたことでしょ?
思っていたってことはそう信じようとしてたってこと。
「外は怖い」は、今回たまたま出くわしただけのこと。
「また会ったらどうしよう」も「会う前提」で考えてるよね。会わないかもしれないのに。
「付け込まれる私が悪いのかな」も、そんなこと誰も言ってないよねw
「帰り道には気をつけよう」と考ればいいだけだし、「そんなに魅力的だったか私〜ww」と笑いにすることだってできるw
だけど、当時はこれができなかった。
今も、「変質者に会った」っていう経験は変わらないけど、おばちゃんが助けてくれたことにフォーカスすれば、私はそこで人の暖かさを知ったわけだし。(おばちゃんありがとうっ!)
カレさんの器の大きさを知ったわけだし、(その後しばらく送り迎えしてくれたんですよこの人∑(゚Д゚)家全然近くないのに!)
ちなみにこちらの記事で、大馬鹿野郎な私を受け止めてくれた人と同一人物ねw( ̄∀ ̄)
ね、辛い思い出やトラウマも、どこに意識を向けるかだけで簡単に変えることができるのだ( ̄∀ ̄)
「忘れられない」は「忘れたくない」という自分の心の叫び
「でも忘れられないんです!」という人もいるかもしれない。
ほなさ、忘れなくていいんじゃない?( ̄∀ ̄)
ていうかさ、忘れたくないんじゃない?( ̄∀ ̄)
決してバカにしてるわけではなくてね、それって「私はこんなに怖かったのよ!」って自分の中の自分が叫んでるんだと思う。
まだそこまで傷が癒えてないんだよ。「まだ今は」忘れたくないだけなんだよ。
だから自分で「怖かったね」って素直に認めてあげたらいい。
ただ、その気持ちを「だからこんな私を受け止めなさいよ!」「受け止めてくれない!酷い!」って恋人や友達にするのは違う。それは悲劇のヒロインになって可愛そうな私に酔ってるだけ。
受け止めるかどうかは相手が決めること。相手のキャパによっては受け止められないことだってある。だから相手に委ねるんじゃなく、基本は自分で受け止める。(受け止めてくれたらさらに嬉しいけどね)
たたただ「怖かった」「辛かった」その気持ちを認めてあげる。「いつまで過去のことを」って自分フルボッコにせず、悲劇のヒロインにもならず認めてあげる。
そんで少し落ち着いたらこの方法を試してみたらいいと思う♪
もちろん試さないのもあり♪むしろ過去のことは思い出さない方がラクだってんならそれを選べばいい。
自分に合った方法で、辛い思い出やトラウマと付き合っちゃえ♪