自由人法帳

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【親子だから許される】ってなに⁉︎当たり前のように信じてる人も多いけどめちゃめちゃ危険な考え方だよ

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街中やお店の中で、人の会話がつい耳に入っとしまうことってあるよね。

 

私が最近耳に入った会話で、どうしても忘れられないものが、「親子だから許される」という会話。

 

正直ね、めちゃくちゃゾッとした。

 

もくじ

 

「親子だから許される」とは?

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とあるお店でのとある人たちの会話。

 

私が順番待ちをしていて、店員さんとお客さんが話していた話だ。

 

お客さんは高齢の女性。「ほら、親子だから許されることってあるじゃない♪」と、自分とお子さんとの内容を話されていた。

 

親子だから、嫌なところも許せる。殴られても、キツイこと言われても許せる、許しあえる。他人との間ならこうはいかない、と。

 

もちろん、わざわざ聞き耳を立てていたわけではない。だけど、その一言が頭から離れなかった。

 

「親子だから許される」って、なんぞ?って。

 

今の日本では根強く信じられている考え方だけど、考えたらめちゃめちゃ危険な考え方やでなって思った。

 

親子でも別の命を持った生命体です

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たとえ親と子であっても、個人対個人であり、別の命を持った生命体。

 

仮に、私が子供を産んだとしても、それは私とは違う生命体。血が繋がっていても、私がその子自身ではない。

 

体質だって私とは違うだろう。好みだって私と違うだろう。

 

その子にはその子の考え方があり、選ぶ基準があり、その子の生き方があり人生がある。

 

親子であっても、別の人間であり、別の命を持った生命体だ。

 

決して親の言うことを聞く奴隷ではないし、親によって支配されたりコントロールされるものではない。

 

また、子供に自分の老後の面倒を見てもらおうとする人は多いけれど、これも双方合意でないなら、親の人生の責任を子供に押し付けている。

 

親子でも別の考え方をします

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親子であっても別の人間なわけだから、考え方だって違う。

 

親の意見が絶対正しいわけではないし、子供の意見が絶対正しいわけでもない。

 

絶対正しい考えなんて存在しないしね▼

【正しさで戦うことが無意味な理由】意見や方法には必ず逆のものがある。だからどれも正しいし、自分の選びたいものを選べばいい - 自由人法帳

 

親が子供に教えるべきことは、「自分の頭で考えること」だと私は思う。

 

親の考え方を押し付けることではなくて、「自分の頭で考える力を育てること」「自分の頭で考えるということを教えること」だ。

 

たとえ話として、「あなたのためを思って言っている」と、親が子供に言ったとする。

 

「あなたのためを思って言ってる」の主語には、「親が」が来る。

 

あくまで、「(親が)子供のためにこれがいいと思ったこと」を言っているだけにすぎないのだ。

 

ここに子供の意見は存在していない。

 

母親はAがいいと思ったけど、子供はBが良いと思ったかもしれない。

 

親が子供に意見を押しつけるようになると、自分の意見をぐっと飲み込み親の意見を聞いてしまう人間ができあがる。

 

これが習慣になってしまうと、自分の意見を言えない人になる。

 

子供は、親の喜ぶ顔が見たい子も多い。現に私はそうだった。

 

だけどそれに親側が甘えてしまえば、常に親の顔を伺う子、親離れのできない子、自分の頭で考えられない子、自分の意見を言えない子になってしまうのだ。

 

親子でも殴れば犯罪です

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親子間であると、暴力が許される場面がすごく多い。

 

だけど冷静に考えてみてほしい、他者を殴ればそれは「暴行」だ。

 

外で人が人を殴ってごらん?すぐさま警察のお世話になることになるよ?

 

「お前のためを思って殴った」と親が言ったとしても、それは「親の意見を飲ませるための道具として暴力を使った」ということにしかならない。

 

「暴力」という圧倒的な力を使っての脅しであり、支配であり洗脳だ。

 

だけど今の日本社会では、これが当たり前のこととされるし、取り上げられない。考えてみればめちゃくちゃ恐ろしいことだ。

 

子供が仮にそれを訴えたとしても、

「お母さんも余裕がなかったのよ」

「お父さんも必死なのよ」

と、「親子であること」が暴力の免罪符にされる場面はすごく多い。

 

そして、親子間の暴力においては子供が圧倒的に立場が弱い。

 

なぜなら親には、「親が子供を養っている」という背景があるからだ。これが美談にされやすいのも事実。

 

逆に、子供が親に暴力をふるった場合、問題視されるのはたいてい子供のほうである。

 

たしかに子供を育てることは大変なことだと思う。だけど、「子を作る」という選択肢を選んだのは他でもないその親自身である。

 

「苦労して育てたんだから、親の言うことを聞け」と、責任を子供に押し付けるのは、はっきり言ってお門違いだ。

 

親子間の暴力は、最近になって増えたわけではない。最近になって、ようやく親子間の暴力が問題視されるようになっただけだ。

 

いわば、透明化・可視化されただけである。

 

親子でも許せないことはあります

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私は虐待サバイバーで、親からはネグレクトと虐待を受けて育った。(くわしくはこちら

 

だから、「親子だから許される」なんてことは絶対にないし、親子であっても私は親が「人として」嫌いである。尊敬できない。

 

「親子であろうが」許したらいけないことは許したらいけないのだ。

 

むしろ、親子関係を大切に思うのであれば、「親子だからこそ」許してはいけないのではないだろうか?

 

親子以前に人対人!「親子だから許される」という考え方はすごく危険

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「ただの世間話に何そんなに熱くなってんだめんどくせー奴」と思うかもしれない。

 

私だってそう思う(笑)

 

だけど、「親子だから許される」という言葉は、ほんと様々なところで耳にする。

 

それだけ「当たり前のこと」「常識」として、無意識に広く人々の中に定着している考え方だということだ。

 

特に、年長者の方にこういった考え方の人が多いように思う。昔ながらの家父長制を主張する人も多い。

 

だからあえて記事としてまとめてみた。

 

親子以前に人と人。親子だから許されるなんてことはないし、親子だから許されるという考え方はすごく危険だ。

 

批判覚悟でいうね。親子であろうと、あなたをないがしろにする関係ならぶった切れ。